礼拝メッセージ
2005年10月16日

「あきらめない神様」
マタイの福音書 21章33-41節

たとえ話の解説
ぶどう園の主人は神様のこと。ぶどう園は神様を信じる者たちがつくる社会のこと。現在だと教会になります。ぶどう園を任された農夫たちは、当時の祭司長やパリサイ人たちのこと。ぶどう園に送られたしもべたちは、イエス様の前に現れていた預言者たちのこと。最後に送られた息子はイエス様のこと。当時の宗教界の指導者たちは、本当には神様のために働いていなくて、神様から送られてくる本物の預言者たちを迫害するばかりではなく、神様から使わされたその一人子、イエスさえも殺してしまうということ、神様は忍耐深く待っていたが、最後には彼らも神様に滅ぼされるということを言っています。

あきらめない神様
神様はとっくにあきらめていいと思う時も、あきらめることがありませんでした。このたとえ話の特徴は、主人が息子までも送ってしまうことです。普通に考えたら、このように地主に対してさんざん悪いことをする人たちがいたら、滅ぼしてしまってもおかしくないのですが、自分の息子ならば敬ってくれるだろうと考えました。ここに神様があきらめずに、信じていたことが分かります。間違えた方向に進んでいる人にも、神様はあきらめずにイエス様を送ってくれたのです。

最後の裁きは来る
あきらめない神様と言っても、悪いものがそのままにされるわけではありません。ここでは祭司長、パリサイ人たちにではなくて、他の人たちに神様を信じる者たちを預けるようになると言っています。それだけではなくて、最後には彼らも滅ぼされるのです。神様のことを信じていると言っている人が全て救われるわけではありません。(マタイ7章21-23節)

今も間違いがあるかもしれない
私達は神様のことを信じていると言いつつ、実は神様に反逆しているということはないでしょうか。イエス様の時代には祭司長、パリサイ人達の問題でしたが、現在は私達の教会の問題です。私達の教会がこのような問題を抱えていることだって、充分にあり得るのです。私達はこのような間違いをしないために、どうしたらいいのでしょうか。み言葉を学ぶ必要があります。常に神様を一番にしているかを考える必要があります。特に、指導者たちが自分をかえりみる時が必要です。

もうすでにイエス様が来ている
私達のためにイエス様はもうすでに来ています。歴史的に見て、とても素晴らしいことです。もうすでに、私達にも救いが約束されています。イエス様を救い主として信じる者が、神様の民となることができるのです。

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