礼拝メッセージ
2006年8月6日

「聖餐について」
ヨハネの福音書 6章51-58節

キリスト教には聖礼典(せいれいてん)と呼ばれる、イエスが弟子たちに命じて、今も続いている二つの儀式があります。一つが洗礼(せんれい)です。洗礼は人が一度水の中に入り、出てくることを通して、キリストにあって新しく産まれることを体験するもので、通常信仰を持ち始めた時に一度だけ受けるものです。もう一つの聖礼典は「聖餐」あるいは「主の晩餐」と呼ばれるもので、これはキリストが十字架に架かる前の晩に、弟子達と食事をした時、パンを裂き、一つの杯から飲み、「私を覚えてこれを行ないなさい」と言ったことから始まるもので、教会によっては年に数回だったり、月に一回だったり、毎週だったり、毎日行なっているものです。

各教会の伝統と本質を捉えること
洗礼に関しても、聖餐に関しても、各教会、教派によって色々な解釈、行い方があります。私はこのことで議論するのは特に必要がないと思います。本質が捉えられていて、これらの式の中でそれぞれがその本質を十分に味わい、主を礼拝できることが唯一大切なことであって、どちらの解釈、行い方が正しいかを争う必要はないと思います。人がこの地上で生きている限り完全ではないので、完全な教会、教派は存在しないはずです。それぞれの教会、教派の特色が生かされて、それぞれの教会が主を知り、主に仕えることができるよう努めるべきでしょう。

キリストの肉を食べ、キリストの血を飲む者は永遠の命を持つ(53-58節)
実際にキリストの肉を食べたり、血を飲んでいる人はいないので、これがたとえであることはすぐに分ると思います。では、どのように肉を食べ、血を飲むのかというと、それが聖餐になります。
この肉を食べ、血を飲むというのは、古くは旧約聖書の過越しの食事に関わりを持っています。Iコリント11章23-26節ではイエスが新しい契約として、十字架に架かって、肉を裂き、血を流されたことを告げ知らせるために、この聖餐を取ることを命令したと教えています。

なぜ、聖餐が大切か
私達の信仰の中心は十字架でおきたできごとです。これを新しい契約と言いました。そして、この新しい契約が与えられたために、ユダヤ人だけにではなく全ての民族に神様の子供になれるという契約が与えられました。
十字架の意味は私達が本来滅ぶべき存在だったのが、代わりにキリストが一度十字架の上で滅んでくださったということです。これを旧約聖書の過越しにたとえるならば、ユダヤ人の家庭の滅ぶべき子供の代わりに子羊が一匹、血を取られて、裂かれて、料理されて食べられたのです。この過越しの子羊の完全版としてキリストは十字架に架かったのです。ユダヤ人の間を主の裁き過ぎ越していったように、キリストを信じる者に対して主の裁きが過ぎ越していくのです。私達は実際にはこの儀式によって救われるのではありません。悔いた心、キリストを救い主として受け入れる信仰によって救われます。ですから、肉を食べ、血を飲みなさいというのは、本当に信仰をもって生きていくことになります。

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